茄子、アンダルシアの夏

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手本となる大人がいないことについて。母は家事放棄の専業主婦だった。父は立派なサラリーマンで、朝早く出かけ、夜遅く帰る。あまり会わなかった。父は自由時間の全てをパチンコで過ごした。母の家計経営はおそらく放漫だったと思う。毎日スーパーの買い物に連れて行かれた記憶に拠れば、毎日の食費が五千円くらいだった。冷蔵庫はなかった。だから毎日スーパーに行って肉を買った。
放漫経営だったせいか、小遣いにはいつも困った。弟は、パチンコで旅費を稼ぎ出してドイツに合唱団の演奏旅行に行った。自分はふがいない生命力のない若者だったし、パチンコを心底憎んでいて、奨学金を使い果たすと金に困った。海外にも行かなかった。そんな大学時代。

でもあなたは娘さんをだめにしてしまう。愛して、大切にして、すばらしい人生を与えるために、あらゆる力を尽くすでしょうね。だけど最後にはだめにしてしまうの。(…)
娘さんに何を与えても、いずれは二倍にして取り返すことになる。取り返していると気づきもしないことが多いでしょうね。でも娘さんは気がつくわ。あなたの人生に関わったあらゆる人たちと同様、娘さんの幸福に欠かせないものは、あなたにぶち壊されてしまう。あなたは娘さんの夢を損ない、自尊心を破壊する。(…)娘さんがあなたの年頃になったら、いけすかない母親について、皮肉混じりに、苦々しく語ることでしょう。しめくくりに、母さんのことはもちろん愛しているけど、なるべくなら顔を合わせたくないと述べるでしょうね。
娘さんは大人になったら、女性誌の記事を鵜呑みにして、自分は何も持っていないと思うようになる。

—ジョナサン・キャロル「薪の結婚」

こういう母子関係の描写には平常心を失う。引用の最後、娘のバカっぷりがまた哀れである。
誰を手本にして生きればいいのかな。ほんのささいなことで迷ったとき。